【この記事について】
この文章は、2026年8月12日にnoteで公開した記事を、海外からこのブログを訪れてくださる方にも読んでいただけるよう、表記など一部を整えて転載するものです。小恰好商店は、日本の暮らしの道具や食品を、台湾を中心とした海外へ届けている小さなオンライン商店です。このページは、サイトの言語切替で繁體中文・简体中文・Englishでもお読みいただけます。商品を紹介するための記事ではありません。masa個人の記録です。
仕事の手を止めて、夕飯を食卓に運びます。
今日も、並べるのは一人分です。
何を食べるか。
何時に食べるか。
仕事を何時に終えるか。
今は、全部自分で決められます。
これらは二人で暮らしていた頃より一見自由に感じられます。
最近一人分の食卓を前にした時、自由について二つの言葉の違いに気づきました。
「辞めたい」は、気持ちです。
「辞められる」は、状態です。
「辞めたい」は、もう続けたくない、ここから離れたいと思うことです。
「辞められる」は、今すぐ辞めたいわけではなくても、必要になったら辞められることです。
この二つは、似ているようで、同じではありません。
辞められないと、人は続けるしかありません。
生活費が必要だから。
ほかにできる仕事がないから。
相談できる人がいないから。
そのときの「続ける」は、自分で選んだことではなく、「続けるしかない」に近づきます。
けれど、いつでも辞めることもできる状態とは。
考えた結果、「今日は続けよう」に至ることができます。
そうなったとき、続けることは自分の選択になります。
辞められる力は、辞めるためだけの力ではありません。
辞めないことも、自分の意思で決められるための力でもあるのだと思います。
二人で暮らしていた頃、夕飯は、私一人の都合だけで決まるものではありませんでした。
何を食べるかを二人分考える。
食べる時間を合わせる。
mikoの体調や予定を気にかける。
買い物では、相手の分も考える。
二人なら、待つこともあります。
自分の希望を、少し横に置くこともあります。
できる自由のことだけを数えれば、一人のほうが多いでしょう。
二人で暮らすことは、自由が減るようにも見えます。
けれど、私は誰かに命令されて、mikoと生きていたのではなく。
自分で、mikoと生きることを選んでいました。
一つの道を選べば、行けなくなる道もあります。
でも、自分で大切だと思う道を選ぶことは、不自由ではないのです。
私は自由を失っていたのではなく、その自由を使って、mikoと生きることを選んでいた。
つまり自分の時間や力を、誰のために使うかを決めたということでした。
愛することは、自由を失うことではなく、自由の使い道を相手の為に自分で決めることなのかもしれません。
もちろん、嫌だと言えず、離れることも許されない関係を、自由とは呼べません。
私が今考えているのは、自分で大切だと選び、そのために引き受けたことです。
今夜も私は、一人分の夕飯を食卓に運びます。
何を食べるかも、何時に食べるかも、自分で決めます。
食べたいものを、食べたいときに食べられる。
それも、たしかに自由です。
けれど、自由とは、好きにできることの数だけではなく。
必要なら、道を変えられること。
道を変えられると知ったうえで、それでも大切な道を選び続けられること。
決められることが増えた今になって、私はようやく気づきました。
私は自由を失っていたのではありません。
その自由を使って、mikoと生きることを選んでいたのだと思います。
また次の記事で、お会いできたらうれしいです。
小恰好商店
副店長masa
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